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今週の小ネタ

2009年7月

「ウミガメのスープ」は日本だけ? [id]

DS版「スローンとマクヘールの謎の物語」(amazon) を買ってみた。 いわゆる「ウミガメのスープ」ゲームのDS版で、提示された物語仕立ての問題に対し、 プレーヤーは自分で質問をぶつけていって正解に辿り着くことが求められるもの。 この、プレーヤーが質問する、という部分のインタフェースが気になったので買った訳なんですが。

実のところ問題が簡単過ぎて、一つも質問せずに正解に辿り着けるような問題が大半というものでした。インタフェースも、まぁこんなものかな、という感じ。 用意された単語郡を適当に選択していくことで質問文を組み立てるので、 質問のバリエーションに乏しいのと、質問に対する答にかなりのヒントが盛り込まれているので、 あっという間に正解に辿り着いてしまう。

いろいろ問題を解いていて判ったのは、「ウミガメのスープ」という物語は、 格別に出来がよいんだな。物語の奥行がずっと深い。スローンとマクヘールの他の物語は、 大半が「頭の体操」レベルで、物語として浅いし拡がりもない。どうしてそんな事件に発展したんだろう、とか、その時の登場人物の心境はどうだったのだろう、というところまで気にさせるような引き込みがない。

「ウミガメのスープ」の良さについて、ネタバラシにならない程度に書くと、 まず話の導入部とその結末とが十分にかけ離れているので、その意外性に驚かされる。 また題材自体がいわば物語元型にのっとったもので、 フィクション・ノンフィクション問わず繰り返し語られてきたものであるということ。 その不気味さと後味の悪さから、時代を問わず人の興味をかき立てて、ずっと生き残ってきた題材なのだ。 だから結末に辿り着いたときに様々なイメージを想起させられる。それ故、物語に奥行きと拡がりを感じるのだろう。

そしてもう一つ重要なモチーフが隠れている。それは、「ウミガメのスープ」という名前にある。 この名前を聞くと、自動的に思い出すのが「偽ウミガメのスープ (mock turtle soup)」。 実在する料理の名前なんだけど、これがまさしく物語の真相とよく呼応している。 ルイス・キャロルの「不思議の国のアリス」に出てくる偽海亀なんかも思い起こされる。

かように、「ウミガメのスープ」は実に奥の深い物語となっているのだ…。

…と、ここで念のために調べてみたら、どうも英語圏ではこのパズルは「ウミガメのスープ (turtle soup)」ではなくて「アホウドリのスープ (albatross soup)」として知られているようだ?!

「アホウドリ」じゃ雰囲気が台無しだからウミガメにしたのかな。 誰が変えたか知らないが、キャロルまで引き合いに出したってのに、後半の考察が台無しじゃないか。

ちなみに、アホウドリはアホウドリで、漂流者の友とでもいうべき、 格好の食料源としても知られている。ジョン万次郎らが鳥島に漂着した際は、 手で簡単につかまえられるアホウドリを食べて飢えをしのいだと伝えられている。

2009.7.3

Apple に感じる閉塞感 [id]

これは僕の周囲だけかもわからないが、一部の先鋭的アーティストが最近、 Apple から離れ始めている。iPhone 解約した、Mac やめたい、などの声をチラホラと聞くようになってきた。 Apple 製品の品質が低下してきたとか魅力がなくなったという訳ではない。 どうやら、Apple 製品を使っていて不自由を感じることが増えてきたから、ということのようだ。

不自由な感じとはどんなものか。例えば iPod に曲を格納していつでも聴けるようにするには、iTunes を使う必要がある。 手元の MP3 ファイルを iPod に放り込むにはフォルダにそのファイルを放り込めばいいという訳には行かず、 iTunes にまず登録してから同期させなければならない。 iPod 内のファイルシステムは普通に OS からアクセスできるにも関わらず、だ。

この仕様については、そもそも疑問に思わない人もいるだろうし、 なんでそんなことを気にするのか、不思議に思う人も多いだろう。 iPod は音楽を聴くための機器だし、iTunes は楽曲管理のためのアプリケーションだ。 両方とも Apple が開発しているのだから、親和性は一番だ。 実のところ僕も手持ちの iPod は iTunes 経由で管理している。 iTunes の他の選択肢、例えば gtkpodAmarok など、 が無い訳ではないのだが、iTunes もそこそこ出来が良いし、純正品だから面倒も少ないということで、 いくつかの欠点には目をつぶって使い続けている (以前は gtkpod を使っていたのだけど、iTunes Music Store を使うようになったので仕方なく iTunes に戻したという経緯)。

それでもなお、iTunes みたいな専用アプリケーションによる管理を嫌い、 フォルダにファイルを放り込むだけで簡単に使えるような環境を好む人達は確かに存在する。 もちろん僕だってできればそうしたいくらいだ。

彼等がそうした環境を好むのには様々な理由があるだろうが、 その根底に流れる信念は、 コンピュータは徹底して自由に扱えなければいけない、というものだ。

iPod は内部に普通のファイルシステムを持っている。すべての楽曲はファイルとして格納されている。 iPod のファイルシステムは本来 OS から普通にアクセスできる。

なら何で iPod の内部構造に自由にアクセスできないんだい?

何でファイルを放り込むだけで再生できるように作らないんだい?

iPod 内のフォルダに入っている MP3 ファイルを見付けてくれるでないし、 管理ファイルの詳細は伏せられているため自由にいじれるわけでもない。 コンピュータにおける自由の信念を持つ僕等は常日頃から自由にコンピュータを乗り回すことに慣れきっているので、 たまにこんな障害にぶち当たると、それがとても醜悪で邪なものとして目に映って仕方がない。

もっとも、これは「使いやすさ」の観点からは別の結論も出てくる。上で出てきたようなやり方は、 下手に作れば新しい楽曲は一々ドラッグして iPod のフォルダに放り込む操作をユーザーにやらせることになるし、 楽曲 DB の管理は破綻しかねない。あまりコンピュータを使い慣れない人にとってはむしろ害の多いインタフェースになるきらいがある。 だったらむしろ iTunes のみサポートする現在のやり方のほうが、 大多数の人にとっては便利だということになる。Apple が採ったのは事実そういうやり方だった。

この戦略はそのまま iPhone にも当てはまる。Jailbreak でもしない限り、 AppStore を介さずに iPhone に好きなアプリケーションをインストールすることはできない。 ソースコードが公開されているようなフリーソフトウェアであっても、 Apple の用意した枠組みを経ないと、自分が持っているコンピュータにアプリケーションひとつインストールすることができないなんて、そんなおかしなことがあるだろうか。

とはいえ、それは営利企業の一つの戦略として別段おかしいということはない。もしそれがコンピュータでなければ、 車だって家電製品だって、そこまで大きな自由を保証するようなものは少ないということは皆よく知っていて、 ここまで不平不満を持つことは無いだろう。

もしそれがコンピュータでなければ。

ところがコンピュータにおいては、自由であることが最も重要な資質の一つである。 フリーソフトウェア運動の祖、リチャード ストールマンが訴えたのも、 "Free as in freedom"、すなわちソフトウェアの自由であり、 自由なコンピュータ環境だった。 そもそもが、Apple Computer が Apple I を世に送り出したとき、 Apple I はコンピュータユーザに自由を約束するものだった。 Macintosh を世に送り出すときの、あの有名な "1984" の CM で訴えたのは何だったか。 昨今の Apple の姿勢がどうにもこうにも我慢ならないのは、 Apple I からはあまりにも隔ってしまった、現在の Apple 製品の不自由さだ。

とは言ったって、iPhone へのアプリケーションインストールを制限しているのはそれなりに理由があるだろう。端末自身のセキュリティの為だったり、回線キャリアの権益を守るという意味合いもあるだろう。それは分かる。だけど、それでもやっぱり iPhone の「自分のものではない」感覚はどうしても拭えない。必要とあれば極限まで迫った使い方をするような者には、納得できないデバイスなんだ。

そんな必要にかられるような人達の中に、アーティストがいる。 Apple 製品といえばアーティスト御用達というイメージもあるのだけど、 作品製作においてはしばしば、マシンが持つ機能の限界に触れるような使い方をしなければならない時がある。 かつての Mac、まだ Macintosh と名付けられていた頃の Mac は、 そうした限界作業にとても不向きなマシンだった (アプリケーションに割り当てるメモリ量を手作業で調整していた頃を思い出して欲しい。 とにかくアプリケーションが落ちたあの頃を)。 それが Darwin ベースの Mac OS X になって、かつてに比べれば格段に限界領域が拡げられ、 使いやすいインタフェースの支援もあるという素敵な環境に生まれ変わってから、 そこに多くの人々が舞い戻ったのだけど、Mac OS X の開放感に比べると、 他の Apple 製品の閉塞感は限界ハッカーにとっては息苦しい。

もっとも、Mac を離れてどこへ行くのか、という問題は依然残る。 Windows はこれまた Darwin に比べれば色々と閉塞感のある OS だし、 かといってアート・デザイン分野のアプリケーションの充実度を考えると、Linux においそれと移れるものではない。 多くのアーティストの収入を支える Web デザインの仕事は Linux ではまかなうのは辛いという事情もある。 結局は渋々ながらも Mac を使い続けるという選択しか残っていないのかもしれない。 (もちろん、これを期に「こっちの世界へいらっしゃい」と勧誘はしているけど)

それでも、Processing・Pure Data・SuperCollider・Blender といったソフトウェアや、Arduino 用開発環境など、 オープンな環境での開発は今や大きな流れになってきた。 いつまでも Mac が「アーティスト御用達」の看板を保ち続けられるものではない。

2009.7.1

2009年6月

マイケル ジャクソン急逝 [id]

今日は、マイケル ジャクソンの追悼の意味をこめて、DVD 鑑賞。 名曲喫茶「ライオン」用語でいうところの「コンサート」。 とにかく片端からかけていこう。

合間に YouTube で、Weird Al の "Eat it!" や "Fat" も鑑賞。

2009.6.27

妻を捨てよ、町へ出よう [id]

寺山修司の評論集のタイトルとして、また名文句として有名な 「書を捨てよ、町へ出よう」(amazon) 。 読んでみればわかるけど、「本に書いてある知識なんて薄っぺらだ、町へ出て、ホンモノの感覚を肌で感じなきゃ」みたいな内容ではまったくない。 むしろもっと本を読みたくなってしまうような代物である。 野球よりもサッカーの方が男性的だと断じてみたり、勝目のないギャンブルを勧めてみたり、怪人二十面相の正体は明智小五郎だと言ってみたりする、 中立性とかバランス主義などとはちょっと離れた一方的な断じ方の随筆・評論なんだけど、 頭の中にしか存在しない中庸を説いたものよりもむしろこんな独善的な断じ方の本の方が最近は面白い。 初めて読んだのは大学院生の頃だったかな。僕はサッカーより野球の方が好きなのでちょっとムッとしたりしたけど、 こういう人と「いーや絶対野球の方が面白い」「野球なんて所詮球拾いじゃないか」と終わりのない口喧嘩をするのはとても楽しいもので、 読んでいると寺山修司とバーのカウンターでそうしたくだらないやりとりをしているような気になってくる。

ところで、この「書を捨てよ、町へ出よう」という文句には続きがあるというのをどこかで目にしたのだが、どなたかご存知ないでしょうか。 その続きは「町を書物のように読んでみよう」とかそんな内容なんだとか。 舞台や映画でのセリフなのかなぁ。気になってしょうがない。

で、タイトルの件ですが、このページでその題が「を捨てよ」と間違って掲載されていて吹いた。 いったいなんでまたこんな間違え方をしたのだろう。OCR か?

2009.6.26

鹿島茂の悪癖 [id]

バルザックの「幻滅」を読みたいと思って Amazon で調べてみたら、 「幻滅―メディア戦記」なる書籍が見付かった (amazon) 。 3360 円は高いなぁと思うと同時にこの「メディア戦記」という副題は何なんだ、 と思う。見れば訳者に「鹿島茂」の名がある。ははぁ、さてはまたやらかしたな。 この人は「パリ・ジャーナリズムのモノグラフィー (Monographie de la Presse Parisienne)」 でも、

十一年前に本邦初訳として世に出たとき、相当数の書評が出たにもかかわらず、 本書は悲惨なくらいに売れなかった。(略)ジャーナリストおよびその志願者はジャーナリズムのことを論じた本をいっさい読まないのである。(略)

では、そうしたジャーナリストに本書をなんとかして読ませるにはどうしたらいいか。本書の企画者であるモルドとルノーにならって、「ジャーナリズムを怒らせる」ようなタイトルにするに限る。それがこのタイトル変更の理由である。

という理由で「ジャーナリズム性悪説」(amazon) という邦題をつけてしまった人である。同じバルザックの「〜の生理学」シリーズと同様、 学術研究書のスタイルを採った本にこんな勝手な邦題をつけるというのは困り物だが、 フランスジャーナリズムに関する仏語の本の翻訳にこの人ほどふさわしい人もいないわけで、 そのあたりは我慢するしかない。だからって「メディア戦記」はないんじゃないかなぁ。

2009.6.25

朝日新聞の Web サイトを見に行くと npviewer.bin がメモリを食いつぶす [id]

Ubunutu の x86_64 環境で Firefox と Flash plugin を使っていると、 asahi.com を見に行ったときにかなりの高確率で Flash plugin がメモリを食いつぶしに走るのはどうにかならんもんか。 nspluginwrapper で無理矢理使っているので文句をつける筋合いはないんだけど、 お陰で asahi.com を避ける習慣が身についてしまった。

他の Flash コンテンツでは滅多にこの現象に遭遇しないんだけど、 asahi.com に掲載されている広告コンテンツと相性が悪いのかな。 何か良からぬ物が入っているのでなければ良いが。

2009.6.25

コンピュータビジョン・拡張現実感に関する普通じゃない勉強会2.0 [id]

先日は、橋本君主催の 「コンピュータビジョン・拡張現実感に関する普通じゃない勉強会2.0」に参加してきました。 で、そこで何喋ったかについては、おいおいあちこちのブログで書かれるだろうからまぁいいだろうと思っていたらRobot Watch に取り上げられていたので、 さすがにこのままだとアレかなぁと思ったので、僕なりのまとめとフォローを書いておきます。

§

まず自分の発表であるところの「πR」の話だが、 あくまでも、光弾性効果を使った一連の研究は「PhotoelasticTouch」であり、 間違っても「πR」ではないので、これは誤解のないように願いたい。 PhotoelasticTouch 自体はいたって真面目な研究である。

以前から、ディスプレイの平面さ加減はなんとかならないものかと考えていたというのは本当で、 苗村研の tablescape plus のように、テーブルトップインタフェースにおける立体表示については何かしら試みてみたいと思っていた。 立体ディスプレイを使えばひとまずは解決なんだけど、テーブルトップシステムだと全方向からテーブル表面を見ることになるので、 よくある立体ディスプレイ技術だとうまく機能しない。最近ようやっと integral photography を使った立体ディスプレイが出てきて、 どの方向から見ても立体視できるようになってはきているものの、 まだまだ扱いが難しい。

立体表現の別のアプローチとしては、HMD を使うというのもあるんだけど、 僕はやはりディスプレイにこだわっていたい。コストや装着性の問題に加え、 映像表現の観点からいくと解像度・色表現において現行のディスプレイ技術を使うのが一番理にかなっているのだ。 そこで、今あるディスプレイ表面を少し引っ張り出す、というアプローチを考えていた訳だ。

もう一つ、ディスプレイ表面、正確にはディスプレイ上空のちょっとした空間にはもう一つ狙いがある。 かつて SmartSkin の研究で、 テーブルに直接触れるのではなく、テーブル上空で手を動かすことによるインタラクションについて色々試みていた。 従来のテーブルトップインタフェースはどうしてもインタラクションが平面に束縛されてしまうので、 いまひとつ思い通りのことができないというもどかしさがあったのだが、 SmartSkin ならテーブルに触れていなくても手指を認識できるので、 テーブル表面からやや離れた場所をも取り込んた三次元的なインタラクションが可能となるのだ。

そんなこんなで、ディスプレイの表面+10cmくらいの空間を取り込んだインタラクションのことを現在は研究している。 動き視差による立体感提示も組み合わせて、±10cmの空間、としてもよい。 この空間のことを "twilight zone" と僕は呼びたい。この空間を利用するのが "twilight interface" だ。日本語にするなら「あの世」と「この世」の境目という連想から 「黄泉平坂インタフェース」とでもしたいところだが、くどい。かといって「黄昏インタフェース」だといきなり終了の雰囲気があるしなぁ。

§

さて、再び「πR」の話に戻るけど、あの発表だと「二次元嫁を三次元に引っ張り出したい」というのが動機であるかのようですが、 別に二次元のキャラクターに身体を与えることには実は興味はないんだよね。 そもそも二次元嫁いないし。じゃぁなんでああいった発表になったかというと、 直接的な動機にはなっていなくとも、やっぱり面白いんだよね、ああいうのは。 以前オリエント工業のショールームに行ってきた時にも思ったんだけど、 この種のことは何かしら面白いことが隠れているような気がしている。 脳内ファンタジーを触感で強化するというのは非常に面白いテーマなのだ。 また、もっと現実的な理由として、観客ウケがいいってのもある。

後半の三分間クッキングに至ってはもはや完全にパフォーマンスだ。 ただ残念なのは、「嫁」の世界観とクッキングとに何の関連もないので、 パフォーマンスの一貫性が損われてしまったこと。なんとかして橋渡しするための理屈を入れたかったんだけど、時間切れ。 まぁお祭りでもあるので、あまり細かい事は考えずにウケを狙ってみました。

パネルディスカッションについては別記事で。

2009.6.25

「HAL は歩きにくい」記事消える [id]

いつの間にやら、Robot Watch に掲載されていた 「北九州市立門司病院でパワーアシストスーツ「HAL」の体験会開催」 が消えている、という話を聞きつけた。なんでもとある企業からクレームがついたとのこと。おそらくその問題となった箇所は

リハビリ用のマシンとしての効果を、リハビリの担当者に聞いてみたが「実用という点ではまだまだ」とのことだった。HALは筋力をアシストするものなので、関節自体に異常のある人に使用することはできず、また体の各所を鍛えるというものでもないので、リハビリでの使用場面が限られてしまう。

HALを装着するためには、太腿や腰に筋電を拾うための電極パッドを18カ所張らなくてはならない。しかも皮膚に直接張らなくてはならないため、ズボンを脱ぐ必要がある。この手間が意外とリハビリをやる人にとっては心理的壁になりそうな気がする。

実際にHALを装着して歩いてみたが、正直なところ歩きにくい。「拘束具をつけて歩いている」感じが強く、どうしてもすり足気味になってしまう。やはり健常者にとっては異物を装着している形になってしまい、何も付けない状態よりは歩きにくいのだろう。しかしこれは筆者が健常者だったからで、筋力の衰えている人に対しては有効なのかもしれない。

のあたりだろう。ちなみに今ならまだ Google キャッシュに残っているので、全文が読める。

ところで、サイバーダインのサイトには、門司病院でのイベントの事がまったく書かれていませんね。関係していないのか、どうでもいいことなのか、無かったことになっているのか。

2009.6.18

Zachary Lieberman 来日できず [id]

昨日は rhizomatiks主催イベントで、 openFrameworks の開発者、 Zachary Lieberman が喋る予定だったのだが、千島列島のサリュチェフ火山噴火の影響で搭乗していた飛行機がニューヨークに引き返すという事態となり、 ビデオメッセージおよび Skype 越しで挨拶、という展開に。


ニューヨークからニューヨークへ飛ぶ奇跡の軌跡

なお、別便で再度来日に挑戦し、来週の木曜日には昨日できなかったトークをする予定とのこと。

2009.6.18

新作スタートレックは「さよならスターウォーズ」という牽強付会 [id]

先日、映画「スタートレック」を観てきたのでその感想。 まず映画をお薦めするかどうかですが、トレッキーなら、絶対観るべき。 貴方がこれをよいと判断するか悪いと判断するかは関係ない。 どっちに転ぶにしても自分で判断するために観る価値はある。 スタートレックをまったく知らない人に薦めるかどうかは悩ましいけど、 さすがにちょっとは知らないとやや楽しむのは難しい。でもTVシリーズの数話でも観て、 ちょっとでも興味が持てるなら、いつかは必ずこの映画を観た方がいい。

一応不満点についても述べると、観劇中に気になったのは二つ。 カークが副長相当に引き上げられるシーンがないため、 その後の権限委譲の部分が唐突になってしまった点と、 バルカン降下部隊の連中のスーツの配色。観終わってからは色々とないではないが、 細かいところだし、好みの問題にもなるのでそれについては割愛。

で、誰も聞いてないのに深読み話です。的外れになることが前提の楽しい深読み話ですが、 僕はこの話を、トレッキーサイドからの「スターウォーズお疲れ!これからはスタートレックが頑張ります!」宣言と読んだね。ポイントは三つ。

まずこのお話は世代交代と権限委譲のお話であること。 もちろんアメリカの国内情勢の反映という素直な見方もあるけど、 新作でもこれといった新機軸が出せず、エピソードの消化で終わってしまい、 世代交代に微妙に失敗したスターウォーズに対し、 順調に新陳代謝を行っているスタートレック、という対比だといえる。

そして、そのいまひとつふるわなかったスターウォーズから「第一級 SF 娯楽映画」の権限を引き継いで、 新生エンタープライズは出航しましたよ、というのが、製作者達の言いたかったことなのではないか。 この映画が、むしろスターウォーズ派というエイブラムス監督から生み出されたというのも興味深い。 スターウォーズ6部作が終わってしまったことから来る喪失感、あるいは失望から目を転じて、 「ファイナル・フロンティア」を指向したと考えると、 今回のスタートレックがまさしく「エピソード1」的過去からの再スタートでありながらもオリジナルと異なる道筋を辿っていったことと符号し、 お話としてよくオチる。

そして極めつけのオチは、最後のとある人物のセリフ "I'm not your father." もちろんこれはスターウォーズの超有名なセリフ "I am your father." の否定です(笑)。

スターウォーズと絡むのはひょっとしてここだけかも知れませんが、こじつけ上等。(ただし、子供の頃のアナキンとカークが微妙に似たことやっているのは興味深い)

2009.6.8
福地 健太郎 (メールアドレスはこちら)